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冒険とスポンサー

  • 8月10日
  • 読了時間: 7分

エベレストに登って変わったこと

「エベレストに登って変わったことはありますか?」

ここ2年で1番いただいた質問である。

正直なことを話すと、エベレストに登って、僕は少しおかしくなった。

いや、標高8,848mまで登ったせいで脳に酸素が足りなくなった、という話じゃない。 もっと面倒な話である。

僕は2024年5月、エベレストに登頂した。エベレストに登るには、大きな資金が必要だった。 当時の僕には、その資金がなかった。だから企画書を作った、SNSで協力を呼びかけた。熱意を伝えるために走り回った。 自分がなぜエベレストに登りたいのか、何ができるのか。

山に登りたいだけなのに、プレゼン資料を作り、頭を下げ、自分という人間の商品価値を説明して回った。 その時は本当に必死だった。 結果、11社の企業様と、多くの個人の方が僕を支援してくれた。 そして僕はエベレストに行くことができた。登頂にも成功した。僕一人では絶対にできなかったことだ。 だから今でも、支援してくれた方々には心から感謝している。

ただ。エベレストから帰ってきてから、僕の中に妙なものが残った。

気持ちのいい感情じゃない。罪悪感とも少し違う。なんとなく借りたお金を返さないでいる感覚に近い。

金を返せと言われているわけではない。誰から何も要求されていない。

それなのに、なぜかずっと「何かを返さないと」という感覚だけが、ずっと胸の奥に重く残っているのだ。


最強のテイカー

人間には「ギバー」「テイカー」「マッチャー」という3種類ある、という話を聞いたことがある。 人に与える人、ギバー。人から奪う人、テイカー。その帳尻を合わせる人、マッチャー。

その分類で言えば、エベレストのときの僕は最強のテイカーだった。 「エベレストに登りたいんです」と言って、多くの方からご支援をいただいた。冷静に考えると、なかなかすごい。そして支援してくれた人たちは、僕にとって神様のようなギバーだった。僕は人生で初めて、企業様や多くの方々から大きなものを与えてもらった。

すると当然だが、それを返したくなったのである。僕は昔から、何かしてもらったら返さなければならないと思って生きてきた。飯を奢ってもらったら、次は自分が奢る。プレゼントをもらったら、何かを必ず返す。人間社会はそうやって回っているものだと思っていた。

ところが、エベレストでもらったものは大きすぎた。簡単には返すことはできない。では、どうやって返すのか。



与えてもらったものをどうやって返すのか

僕は考え始めた。企業様は、なぜ僕を支援してくれたのだろう。僕という人間に投資価値があったのだろうか。エベレストの先にある何かを期待していたのではないか。

だとしたら、エベレストに登って終わりでは駄目なのではないか。もっと大きなことをやらなければならない。もっと世間にインパクトがあることをやらなければならないじゃないか。

例えば、8,000m峰全14座、七大陸最高峰、未踏峰の山。

もっと高く。もっと難しく。誰もやったことがないことを・・・。 気がつくと僕は、次の冒険を「自分が何をしたいか」ではなく、「何をすれば期待に応えられるか」で考えるようになっていた。

これはとても怖いことである。冒険には、際限がないからだ。エベレストに登れば、次がある。七大陸最高峰をやれば、14座をやれば、さらにその先がある。一度刺激を強くすると、次はもっと強い刺激を出さなければならない。

そうしなければ「前より小さくなった」と思われる。

いや。正確には、思われるような気がする。ここが厄介なところだ。実際には、誰もそんなことを言っていない。「次は14座やれよ」とも、「もっと命を張れ」とも、支援してくれた方々は誰一人として僕に言っていない。全部、僕の頭の中で勝手に作った「誰かの期待」だった。



先輩冒険家の言葉

そんなとき、ある冒険家の先輩と話す機会があった。その人は何度も大きな資金を集め、大きな冒険を実現してきた人だった。僕は自分の中にあるモヤモヤを話した。支援してもらったが、与えてもらったものを返せる気がしない。もっと大きな挑戦をしなければならない気がする。そんな話をした。

すると彼は言った。「その心持ちで山に登ったら、死ぬかもね」なかなか景気の悪いことを言う。 でも、続く言葉はもっと本質的だった。

支援してくれた人が、今の君に何を期待しているかなんて分からない。エベレストのときには、その人なりの理由があって支援してくれたのかもしれない。でも今、何を考えているかなんて本人にしか分からないこと。だから、いくら考えても仕方がない。自分の頭の中で勝手に他人の期待を作り上げて、それを原動力に冒険を始める。そんなことをしたら、いい結果になるはずがない。

その言葉を聞いたとき、2年間胸の奥に引っかかっていたものが少し軽くなった気がした。

冒険なんて、誰かの期待に応えるためにやるものではない

少なくとも、僕にとっては。

スポンサーを得るということは、冒険の可能性を広げてくれる。これは間違いない。

自分一人では行けなかった場所へ行ける。見られなかった景色を見ることができる。僕がエベレストの頂上に立てたのも、多くの人の支援があったからだ。でも同時に、人から何かを与えられるということには、別の怖さもある。

善意には請求書がない。

だからこそ、自分で勝手に請求書を作り上げて必死に返そうとしてしまう。

「もっと結果を出さなければ」「もっと大きなことをしなければ」「期待に応えなければ」

誰にも言われていないというのに。

そして、その架空の請求書を握りしめたまま、次の山へ向かおうとしてしまう。

山では、これは危ない。

標高8,000mで「スポンサーに申し訳ないから、あともう少しだけ頑張ろう」は、たぶん最悪の判断理由の一つである。

山はそんな事情を一切考慮してくれない。スポンサーが何社ついていようが、フォロワーが何人いようが、山にとってはどうでもいいことだ。

天気が悪い時は悪い。雪崩れるときは雪崩れる。人間の都合など知らない。 考えてみれば、その無慈悲さこそ、僕が山に惹かれる理由なのかもしれない。



今回の遠征はスポンサーを募らなかった

8月24日から、僕はパキスタンのカラコルム山脈に向かう。 目指すのは標高6,172mのIHAKORA PEAK。今回はスポンサーを募らなかった。完全な自己資金で行く。

別にスポンサーという仕組みを否定したいわけではない。支援してもらったことを後悔しているわけでもない。エベレストで僕が受け取ったものは、今でも自分の人生の大きな財産だと思っている。

ただ、やってみたくなった。誰にも企画書を出さず、誰にも価値を説明せず、誰の期待も想像せず、ただ自分が行きたいから行く。

それで山に行ったとき、自分は何を感じるのだろう。エベレストのときと何が違うのだろう。これも一つの実験である。


分からないことを、分からないままにしておけない

僕はこれまで、いろいろな人から多くのものを与えてもらって生きてきた。

では、それをどう返せばいいのか。まだ分からない。

もしかすると、そもそも「もらった相手に返す」という考え方自体が間違っているのかもしれない。

誰かから受け取ったものを、別の誰かに渡す。あるいは、自分が面白いと思うことを徹底的にやって、その姿を見た誰かが勝手に何かを受け取る。そういう返し方ももしかしたらあるのかもしれない。

43歳にもなって、そんなことも分からない。困ったものである。

だから、分からないから、確かめに行きたい。

頭で考えても分からないなら、自分の身体をそこへ持っていく。

今度の遠征で得た気づきを元にもう一度考えてみたい。

僕にとって冒険とは、何かを証明するためのものではない。

ましてや、誰かから受け取った恩を返済するためのものでもない。

分からないことを、分からないままにしておけないから、自分の身体を使って確かめに行く。

それが今のところ、僕が山を続けている一番まともな理由である。

そして8月24日、また一つ分からないことを確かめに行く。 #パキスタン #カラコルム山脈

 
 
 

1件のコメント


dragstartk
8月10日

表に出すものは全てを書けないのが厄介だね(来山)

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